雑談

 なんかこんにちのニュースやら日記やらを見ておると、ミクが叩かれたり持ち上げられたり、一般人とオタクと呼ばれる二極の間で摩擦が起こっているようですね。まあこんなもん今に始まったことじゃないんだが、大体の人々はやっぱりいつものように、つまらん所ばかり議論しているようで、今ひとつ。
 そもそも「一般人」などというものは可もなく不可もない能力および嗜好ばかりを持ち合わせている人々の総称であって、そんなものは放っておいてよろしい。松本人志が極度のお笑いオタクで、筒井康隆が並ならぬ文学オタクであるように、オタクの頂点は素晴らしく、別にクリエイター側の才能がなくてもそれを好む者はそれでいいのであるわけですよ。
 人間にとって世の中なんてものは、何かに傾倒でもしてないと正気で居られない代物なんだから「生きてる損」をごまかすにはそうするのが自然な話。ちょっと前までは宗教がそのごまかしの役目を一手に引き受けていた。それが時代を経て市民の教養が上がって来て、宗教が科学で陳腐化されその正体を知ってしまう人の割合が多くなってきてしまうと、宗教だけでは足りなくなり、人々、特に我々日本人は、音楽やら文学やらというわけのわからぬもので時間を潰すしかなくなったのだ。壮年になるとセックスの何が面白いのか分からなくなるという男が増えるように、本当は世の中、何一つ面白いことなんかなくて、面白いと思っている最中、そいつらは正気を失って狂っているのである。町田康も酒瓶片手にそう言っている。暇つぶしの形式化と体系化と権威化と普遍化をしたものが媒体の数だけあって、それが娯楽というものだ。
 だからって、全ての趣味や専門分野は貴賎なく平等である!と主張するのは馬鹿なのでやらない。権威やら金やら時代背景やら、あるいはヒューマンとしての生物学的適性も影響して、全ての趣味は差別化されるのが当然だ。が、上記程度の思索にも至らないで、別の道を歩んでいる集団を叩いてしまうのはあまりに無邪気で無知で無の嵐であり、そういった人は押しなべて退屈な輩に違いない。そういう遺伝子を受け継いでそういう育ちをしてしまった人は残念だが手の施しようもないし、施してやることもなかろう。第一、数が多すぎる。そういう人らの扱いは才能のある指導者に任せておいて、我々の趣味はそれはそれで気にせず楽しんだらいいのである。
 なんかミクの話から一般性を持たせて展開していこうとしたら、一般性ありすぎて逆に分かりにくく壮大になってしもた(笑)。また今度。